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3時間半で国際的常識人になれるゆげ塾の速修戦後史 欧米編 / ゆげ塾 (その3)

2020/09/06
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戦後のイギリス首相

チャーチルとアトリー

1945年7月、首相チャーチルはポツダム会談に出席していたが、イギリス本国の総選挙で保守党は惨敗。党首のチャーチルは首相ではなくなった。

大戦での総力戦は共同体意識を高めるため、各国は平等を重んじる社会主義へ傾いた。
イギリスでは左派の労働党、日本では社会党、フランスでは共産党が第一党となった。

与党となった労働党のアトリーは、巨大企業を株主から取り上げて国有化した。
また、インド・パキスタンの独立を認め、1949年には中国共産党政権を承認した。
中国の機嫌を取ることで香港を維持したかったからである。

1950年に朝鮮戦争が勃発すると、アメリカを主体とする国連軍はイギリスにも参戦を要求。
イギリス国民は再び戦争屋チャーチルを求め、第二次チャーチル内閣が誕生した。

イーデン

チャーチルの後継者イーデン。
1956年、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化を宣言したことをきっかけに、エジプトvs英・仏・イスラエルに第二次中東戦争が勃発した。
結果は、アメリカの了解を得ることができなかった英仏が撤退、イーデンは辞任した。

サッチャー

1979年に就任すると国営企業を民営化した。アトリーと逆のことをやったのである。
さらにイギリス市場を外国企業にも開き競争を活性化、イギリスは財政の黒字化に成功した。
その一方で失業者が大量に発生したが、サッチャーは自助努力がなければ職を失うのは当然と考えた。
1990年、サッチャーは人頭税を導入しようとしたことで辞任に追い込まれた。

フォークランド紛争

アルゼンチンの西にあるイギリス領フォークランド諸島は、南極に近いく通年冷たい雨が降るため樹木が育たない。
産業は牧羊だけである。

1982年、そこへ突然アルゼンチン兵4000名が上陸し、島を占領した。
サッチャーは奪還のために3万の兵を派遣、アルゼンチンも1万5千の兵で迎え撃ったが、イギリスが勝利した。

ブレア

ブレア政権の時に香港返還が行われた。
1842年にアヘン戦争で敗れた中国は、イギリスに香港島を割譲した。
1856年の第二時アヘン戦争で九龍半島南端も割譲、さらに1898年にイギリスは日清戦争で弱り切った中国から南端以外の九龍半島全域を租借地として借り受けた。
租借期間は1898年から1997年までの99年間。

九龍半島の南端以外の返還期限が近づいた1984年、イギリスは「香港島と九龍半島南端は本来なら返す必要はないが、返します。その代わり返還後50年間は引き続きイギリスの自治を認めてください」と交渉を持ちかけ、中国はこれを承認した。
これが香港返還協定である。

戦後フランス史

ド=ゴール

1944年6月6日、連合国軍はノルマンディーに上陸した。
この時に活躍したのが反ナチズム組織あるレジンスタンス、中心人物はフランスの軍人ド=ゴールだった。
ドイツを追い出したフランスは、レジンスタンスの活動を支えた各組織が協力して政府を作った。これが第四共和制である。

アルジェリア独立戦争

戦後、フランスはイギリスとは対照的に植民地を手放そうとしなかった。
そのため、ヴェトナムやアルジェリアと独立戦争を戦うことになった。

1954年、アルジェリアで独立戦争が開始、戦争が長引くにれてフランス本国では独立容認が増えていった。
そしてアルジェリア軍駐留軍が反旗を翻し、フランス本土への侵攻を開始した。
この事態に対して権力分散型の第四共和制では対応できなかったフランスは、ド=ゴールを呼び戻した。

大戦の英雄であるド=ゴールには本国軍も駐留軍も敬礼した。
軍部の反乱は鎮静化され、アルジェリアの独立は容認された。
この時の大権を制度化したものが、今日のフランス第五共和制であり、大統領権限が大きい権力集中タイプとなっている。

ミッテラン

1981年から1995年まで、社会党のミッテランによる長期の左派政権であった。
労働者の権利は拡大され、有給休暇は5週間に延長された。
今日のフランスにも影響を与えており、日曜日はカフェ以外の店は閉まっている。

戦後イタリア史

第二次世界大戦の中盤、アメリカがシチリア島を占領すると、イタリア軍部はムッソリーニを逮捕しバドリオ政権を成立させた。
バドリオ政権は降伏し、1ヶ月後にはナチス=ドイツに宣戦布告した。
そのため、イタリア人は自国を敗戦国だと思わないどころか、戦勝国だとすら思っている。

イタリアはドイツや日本のように強制的な国家改造を受けていないため、地主の家系は代々贅沢ができる。その贅沢の繰り返しが、高級ブランドの数々を生み出した。
一方、地主が贅沢するということは搾取される者もいるということである。
今もイタリア国内に米軍基地が存在するのは、地主連中が共産革命を恐れ、アメリカに保護を求めたからである。

戦後スペイン史

スペインはレコンキスタ(国土回復運動)によってできた国である。
レコンキスタとは、キリスト教徒がイスラム教徒に奪われた土地の奪還運動のことであり、8世紀に始まり1492年に完成した。

第二次世界大戦前の1936年、ロシア革命の影響を受け左派政権が誕生した。
しかし、地主出身者が多い軍部反乱を起こし、政府軍に勝利。
その後、反乱軍のリーダーであったフランコによる独裁政権が、フランコが死ぬ1975年まで続いた。

フランコの死後も大土地所有制度が維持されているため、失業率は高い。
農業の機械化が進むと小作人が追い出されるからである。
また、フランコが革命を恐れて教育水準を下げたことにより、工業化も難しく、これも失業率を上げる要因となっている。

戦後ドイツ史

1948年のベルリン封鎖によりドイツは東西に分断された。
1953年にスターリンが死亡すると、1955年に西ドイツはソ連と国交を回復した。
1954年にヴェトナム戦争が始まると、アメリカはフィリピン基地の兵力増強のために、西ドイツの米軍基地から兵力を引き抜いた。
そのため、アメリカは西ドイツに再軍備を命じた。これと全く同じケースが、朝鮮争による日本の再軍備である。

ベルリンの壁

1961年、西ベルリン経由での東ドイツからの亡命を防ぐために、東ドイツは西ベルリンを囲む壁を建設した。
社会主義国家である東ドイツは教育制度が充実していた。
良質な労働力を育成し、多くの税を負担させることで教育コストを回収するというシステムであった。ところが、亡命により莫大な教育費を投入して育てた人材を失うことになってしまったため、東ドイツはベルリンの壁を構築したのである。

ブラント

戦後の西ドイツでは、キリスト教民主同盟が長年政権を握っていた。
1966年、左派政党である社会民主党(SPD)が与党となり、党首ブラントが首相に就任した。
ブラントの一番の功績は、東側陣営との関係正常化に尽力したことである。
ポーランドのワルシャワを訪れた際、ナチスに抵抗したユダヤ人の英雄記念碑に向かって両膝をつき、両手を組み、黙祷を捧げた。
その姿は、ワルシャワのブラント広場に記念碑となって残されている。

オーデル=ナイセ線

戦前、ドイツとポーランドの国境は今よりも東にあった。
ところが、戦勝国となったソ連が「西に領土を拡大するからポーランドと東ドイツは西にずれろ」と言い出した。
こうしてできた新しい国境が、オーデル川とその支流ナイセ川を結んだ線である。

1970年、ブラントの東方外交により西ドイツ=ポーランド条約が結ばれ、オーデル=ナイセ線が確定した。
将来、東西ドイツが統一されたときに、国境線で揉めないようにするための条約であった。

コール

1982年から1998年まで首相を努めた。
1989年にはベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統合された。
東ドイツは資本主義国家である西ドイツに吸収されることを望んだため、統一後の名称は西ドイツの国家名であるドイツ連邦共和国となった。

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